製薬会社との契約上、発注してしまった物は返品が不可能なのだろう。
徐々に体の自由を奪われ健康を蝕まれ、時間を掛けて徐々に国民を殺すつもりだ。
そうすれば接種との因果関係を誤魔化す事が出来、医者も釣るんで責任回避出来る言い訳を設ける事が出来る。
その陰で純朴なSheeple(SheepとPeepleを併せた造語、何とも皮肉な響き)達は騙され屠られていく。
子供や高齢者へ対する手厚い施策(金で面をはたいているのと同じだ)を施しているフリ。
雀の涙の金で誤魔化しやがる。
今夏の総選挙で憲法改悪へ向けて根回ししているのに、あぶく銭を受け取りたいだけで自由を放棄する可能性。
どれだけおめでたいのか?!
医療関係者や介護関係者の方々もなかなかNo!!を国へ突き付けられない。
私も介護施設へ父を入所させてからというもの、もうじき早二か月程全く会えていない。
認知症がひたひたと進み、先日施設の方から家内に説明があったそうだが、ずっと服用していた薬を今迄飲んだ事が無いとまで言ったそうだった。
気圧やその時々の天候の影響も受け、日によって状態が変わるそうだが、後どの位私達家族との思い出が記憶され続けるのだろうか?
昨年、父が実家の側の病院に入院していた時に見舞いへ行き、私が幼かった時の思い出を伝えた所、そんな事あったかな?と返されショックを受けた。
幼き日、住いから少し離れたターミナル駅へ、散歩がてら父と蒸気機関車を眺めに行った。
私が小学校入学前は未だ私鉄沿線を蒸気機関車が往来していたものだ。
父は何時も色々な味のチューイングガムをポケットに忍ばせていて、駅のベンチに二人で腰かけて何も話さずそのガムをクチャクチャ噛みながら通り過ぎる汽車を眺めていた。
仕事で長期出張が多かった父と暫く過ごす平和な時間は私にとって掛け替えのない貴重な時間だった。
子供が喜ぶようにと、風味の異なる種類のガムを予め用意してあるなんざ、心憎い父の思い遣りだった。
何時もは鬼の形相の父だったが、ふと感じる親子の繋がり。
とてもとても嬉しかった。
そんな記憶すらも遺っていないとは、この時認知症を患い始めていた父の重い状態に気付かなかった。
つい先日、私のスクールのギター科の盟友吉田君と体験レッスンの依頼の件についての話と近況報告を兼ねて三時間の長電話をした。
現在、父が認知症を患い施設にお世話になっているとか、私が持病の腰椎椎間板ヘルニアを再発し(三年に一回位のペースできやがる、10m歩くのがやっと)歩行困難に陥っているやら。
互いに親の介護や色々と心配事が増える年代。
ついつい話込んでしまった。
本音で語り合った。
「手に余る場合は、早く亡くなって欲しいとか思う?」
と訊かれ、私は「記憶はどんどん失っても、絶対魂の部分では理解していると思うし、そんな事は思ってないし、考えようとも思わない。」
と答えた。
魂の輝きは永遠のものだと私は常々考える。
人対人、人対動物の関係でも等しく言葉を越えスピリットの上で互いに理解している。(唯一悪魔の仲間の政治屋は無理なんだろうが)
リハビリ病院迄、こちらから迎えに行った時も大変だった。
「もう勘弁してくれ。」「何処へ拉致して連れて行くのか?」やら、しまいには「もう虐めないでくれ。」やら、かつて聴いた事が無い程の弱音塗れになっていた。
ハンドルを握る私の集中力も徐々に削がれ、早馬を高速道路で飛ばしている時も気が気でなかった。
進行方向には雨上がりの富士山のシルエットが。
「親父、どうだい? 綺麗だろ?」と訊くが勿論そんな余裕すら微塵も無い。
果たして入所後の親父はどう過ごしているか?
当初は自分の退院後と現在の処遇の点と点が、認知症の進行で既に結び付かず、介護職員の傍らを着かず離れず指示待ちに徹していたらしい。
「全食完全介助の要あり」と当初申し送りされていた食事に関する問題は解消された様で、自ら進んで食欲を満たしているらしい。
生きる為の夏はまだまだ当分続く。
時折、私達近くの家族で涼しい日陰を用意してあげるから。
まだその生を手放さないでくれ。
こんな形の親孝行になってしまったけれど堪忍してくれよな。