2015年12月31日

もうじき新年です。我にも時代を撃ち抜く用意あり。

今年は個人的には珍しく充実の一年だった。

家族それぞれに多くの人々との出会いに満ち、各々が幸せを実感出来た年だったと思う。

新年早々息子は受験を控え冬期講習へ参加していたので、珍しく今年の正月は実家へ帰省しなかった。

無事息子は志望校へ合格して、恋人とともに今は青春を謳歌している。

娘は中学校へ進学したものの、学校は統廃合の浮き目に遭うので、居心地の良かった学び舎も今年限りになってしまうが、本人は至って呑気だ。

来年は今年の部活での努力が実を結び、無くなってしまう中学校のゼッケンを背負い、晴れて県大会へと駒を進める事となった。

胸にポッカリと空いた欠落感にもがいていた、春思う頃の自分とは大きく異なり、我が子達はこれでいいのだと安堵している。(バカボンのパパみたいだ)

勿論自分も家内もそれぞれに、仕事に家事に教育に一所懸命だった未年。

が、国内外は共に騒乱狂乱の年であった。

今年の清水寺の一字は「安」ではなく「狂」ではないかと本気で思っていた。

新年早々、邦人ジャーナリストの拉致と殺害が報道され、何か胸騒ぎのする薄ら寒い年明けだった。

「自己責任論」とやらを振り翳し、国民を見殺しにする国家、それを支え煽るネトウヨを始めとする国民。

多勢に無勢、いつからこんな風に物分かりの良い生き方が身についてしまった?

過去に旅行中の青年が拉致惨殺された時もそうだった。







海外のリアルを茶の間に届けてくれるのは他ならぬジャーナリストの方々だ。

「自己責任」なんざ百も承知、死なば諸共、切腹覚悟の想いで仕事をしている。

学生時代に学んだ事があるので、よく分かっているつもりだ。

自分の都合が悪くなると入院しちゃう、何処かの方とは大違いだ。

火の粉の掛らない安全な場所にいて、リスクも犯さず安穏と情報を手に入れておきながら、罵倒する人々もそれと同じで大した御身分ですな。

向こう三軒両隣、袖触れ合うも他生の縁の隣人に対するシンパシーはもはや過去の遺物なのか?

騒動の渦中、加えて国会議員の先生方は、自国民の生死がかかっている時に、国会議事堂をバックに、晴れ着でおめかしして記念撮影していたのだ。(あまり知る人は多くない)

9月19日の集団的自衛権の強行採決といい、政治屋共のオイタは酷過ぎた。

子供の悪ふざけのようにしか感じなかった。

あれが仕事だ!?

前夜には総統閣下が側近と焼肉三昧でご満悦だったらしい。

隣の奥方が口にしていたビールにまで手を出してグビグビ酒を煽っていた。

税金を召し上がって我が世の春といった塩梅か。

己が姿をつらつらと鏡に映して恥じ入り慎むが宜しい。






とある学者の方が仰っていた。

「日本というものは文化を持った国家ではなく、国家の存在そのものが固有の独特な精神性を持っている。これはむしろ文明と呼ぶに相応しいものである。」

その通りだと思った。

世界四大文明に匹敵、若しくはそれ以上の我が国の存在理由とその価値。

だから我々が日本人に生まれた事は偶然ではなく、必然なのだ。

和食が世界遺産になった事と併せて考えると、古より我が国は「麗しの民の国」であったと思うのだ。

それが瓦解しようとしている。

来年の事を言えば鬼が笑うとは言うが、その通りになるかどうかは各人の生き方次第だ。

そう反省しつつお正月の正しい在り方を噛み締めている。

歳神様、そして八百万(やおよろず)の神の御加護が、皆々様そして私共にも注がれますように祈ります。
posted by さぶらい at 23:43| 埼玉 ☔| 日記・エッセイ・コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする